自治の領域をつくる。それが生きることを楽しくする | 伊藤亜紗 #1

私たちのまわりには、さまざまなルールや制約があります。それは社会を成り立たせるために重要なもの。しかしルールに従ってばかりだと、時折息苦しさを感じるのも事実です。そんなときは、いつもと違ったところから世界を眺めてみる。小さくても自分の思いのままになる場所を創る。そうしてみることで、ルールや制約はむしろ人生をおもしろくするものに変わるかもしれません。
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の伊藤亜紗さんは、美学を専門としてアート、哲学、身体に関連する横断的な研究をおこなっている気鋭の学者です。障害というある種の制約を抱えた方々の研究をしている伊藤さんが、ルールや制約の存在から生まれるおもしろさについて語ってくださいました。

伊藤亜紗

1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。主な著作に『どもる体』(医学書院)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)など。作品制作にもたずさわる。WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017受賞。読売新聞読書委員。

「いわく言いがたいもの」に言葉で立ち向かう学問

――伊藤さんが専門とされている、「美学」とはどういう学問なのでしょうか。

あまり、日常ではなじみがない言葉ですよね。「美学」と聞いて何を思い浮かべますか?

――そうですね、字からそのまま、美しいもの・ことについて研究する学問なのかな、と。

そう思いますよね。でも、美学は必ずしも「美しい」ものだけを考える学問ではないんです。先に定義を言うと、美学とは芸術や感性的な認識について、哲学的に探求する学問です。

――芸術や哲学の領域に近いんですね。

はい。でもここで終わらずに、もう少し掘り下げて考えてみましょうか。「美」という漢字って「羊が大きい」と書きますよね。これは、羊が太っている、家畜が立派だという意味なんです。

――なんだかそれは、一般的に言われている「美しい」とは離れている感じがします。

私も大学時代の美学概論の授業で、先生がこの説明をされたときは衝撃を受けました。元々、美しさというのはある種の「立派さ」と関係があったんです。完璧さ、完全さ……西洋では、神々しいという要素も入ってきます。

――たしかにそういう「美」もある気がします。しかし、現在の私たちが思っている「美しさ」はそれだけではないですよね。

美しさの価値観は、時代によって変わっていく部分もあるんです。そもそも、「美しい」とはなにかを説明してください、と言われたらどうします?

――美しいというのは感覚的なもので、説明しろと言われると難しいですね。

その感覚が、「美学」の出発点です。美学とは「言葉にしにくいものを言葉で解明していく」学問なんです。フランス語に「Je ne sais quoi(ジュヌセクワ)」という言い方があります。日本語にすると、「いわく言いがたいもの」でしょうか。感じているのに言葉にできないもの。でも、わからないわけではなく、わかっているけれど言葉にできない、言葉にしたくなる、そんなものを指します。

――そういったものを言語化していくのが、美学なんですね。

そう、言葉にしにくいものの代表が、「美」のような「質を捉える感性のはたらき」なんですよ。

――そういう分野の学問があるんですね。伊藤さんは、子どもの頃から感性や芸術といったことに興味があったんですか?

いえ、まったく(笑)。どちらかというと、興味があったのは「身体」ですね。自分の身体も含め、身の回りの昆虫や小動物など「自分とは異なる身体を持った存在」についても興味がありました。だから、毛虫やザリガニなどを飼って、よく観察していたんですよ。身体を使って遊ぶのも大好きで、いつも走り回って汗びっしょりになっていました。

――いまの伊藤さんのお仕事や様子からは、あまり想像がつきません……。本を読んで静かに過ごすような子ども時代を過ごされたのかと。この研究室も本だらけですし。

今は本を読むことや書くことも仕事の一環ですが、子どもの頃はほとんど本を読みませんでした。物語にあまり興味がなかったんですよね。読むとしたら図鑑くらい。図鑑のようにすべてのものが等価に、並列に並べられている感じが気持ちよかったんです。

雑木林から、違うレイヤーの世界が見える

――本を読んでなかったのは意外です。身体を使う遊び、というのはどういうことをされていたんですか?

一番好きだったのは、雑木林の冒険です。

――雑木林ですか?

私が育った東京の郊外は、まだ開発されていない雑木林があちこちに残っていたんです。その雑木林の中をわーっと駆け抜けていく。すると、思いもよらないところに出たりする。ちょっと、ワープみたいな感覚が味わえるんですよ。そうした新しい道を探す遊びをよくやっていました。

――それはひとりで? それとも友達と?

数人で、毎日やっていましたね。林の斜面を滑り降りるなど、けっこうハードに遊んでいました。私が計画を立てて、「今日はあそこを攻めるぞ!」とか言って(笑)。けっこう子どもの頃は、ガキ大将だったんですよ。

――お供を引き連れて領地拡大、みたいな感覚があったのでしょうか。

そうそう。みんなが普段見ている、いわゆる舗装された道をベースとした世界とは違うレイヤーの世界を発見するのがおもしろかったんです。雑木林を抜けると、全然別の空間だと思っていたところに出たりするんです。ショートカットする感じ、離れている場所がリンクする感じがたまらなかった。でもこれって、今の仕事も同じなんですよね。

――研究の仕事と、雑木林の冒険が同じ……。

雑木林を走り抜けて、「あっ、ここに出るんだ!」という感覚。それは論文を書いているときの、「まったく別だと思っていたAとBがリンクするんだ!」とわかったときの興奮とまったく同じなんです。

――なるほど、それはおもしろいですね。

「こことここがつながっていたんだ!」という発見の興奮が、私の原体験です。そういう知的興奮を味わいたくて、論文を書いているところはありますね。

――それは、熟考の末にパッと訪れるひらめきみたいなものでしょうか。

うーん、机の前で考えているときよりは、眠っているときなどに起こるんですよね。

――起きた瞬間に「そうか!」となる。

そう、ずっと見えなかった論文の構造が、起きたらパッとクリアになっていたりする。寝ている間は、頭のなかで情報がふわふわ漂っていて、意外なところが結びつくんでしょうね。自分のコントロールを超えたところで起こる出会いに、すごく興奮するんです。

――そういう出会いを起こすためには、伊藤さんの場合だと研究に関連する文献を読んだり、研究対象の方にインタビューをしたりして、情報を蓄積しておくのは重要そうですね。

1回のインタビューや1冊の本を読む中にも、小さな発見はもちろんあるんですけど、それを溜めておくだけでは足りないのかなと思います。つながり、リンクを意識しておくことが必要ですね。近いところでつながるリンクもあれば、すごく遠いところまで連れて行ってくれるリンクもある。小さいリンクがないと、大きいリンクもないんですよね。

自分でルールをつくる「自治」の楽しみ

――雑木林の冒険が原体験であると。それは、なぜそこまで子どもの頃の伊藤さんにとって、楽しいものだったのでしょうか。

おそらく、遊びの基本って「自治」みたいなところにあるんだと思うんですよ。

――「自治」ですか。さっき「ここを攻めるぞ!」と言いながら遊んでいたとおっしゃっていましたね。

そうそう、あれって知らない場所を征服していく楽しさみたいなのがあったんだと思います。そこで、既存のルールではない、自分だけのルールを新しく作っていく。そういう楽しさが、遊びには必要なんだと思います。これはきっと、子どもだけじゃなくて大人にも必要で。社会生活の中では外部のルールに従って動いていますが、そうではない場所を意図的に作るのが大人にとっての「遊び」になるんじゃないでしょうか。

――自治というと、なんだかむずかしそうですね。ゼロからルールを考えるとなると……。

ゼロからじゃなくてもいいんですよ。あるものをアレンジしたり組み合わせたりして、新しいルールを作るというのも自治だと思います。例えば、鬼ごっこのひとつで「こおり鬼」ってありますよね。

――鬼にタッチされた人はその場で動けなくなる、という鬼ごっこですね。

そこから、派生ルールがたくさん考えられますよね。鬼を複数人にするとか、時間が経てばまた動けるようにするとか、凍った人を溶かすのにタッチするだけじゃなくて股の下をくぐるとか、「高鬼」のルールを取り入れて高いところにいたらタッチできないようにするとか、いろいろ考えられる。どのルールで遊ぶと一番盛り上がるのかは、その時のメンバーや空気によります。遊びがつまらないときは、ルールと自分の関係がうまくいっていないんです。

制約があるほうが、ゲームはおもしろくなる

――ルールは自分を縛るものですが、完全に自由であるよりはルールがあったほうが遊びは楽しいんですね。

そこが不思議ですよね。遊びは、ルールがないと成立しないんです。これはスポーツもそう。基本的に、目標が達成されるまでの時間をルールで調整しているんですよ。例えばサッカーだったら、何のルールもなくてゴール決め放題だとつまらないわけです。オフサイドなんかは典型的な例で、敵のディフェンスよりも敵のゴールの近くにいてはいけないというルール。これ理不尽といえば理不尽なんですよ。

――たしかに。どうしてあんなルールができたんですかね。

でも、あのルールによってよりゲームが複雑化する。ゴールを決めるという、サッカーにおける目標達成までの時間が遅れるわけです。その遅れた部分にドラマが生まれる。オフサイドがちょうどいいハードルになって、よりゲームがおもしろくなるんです。

――独自のルール、ハードルというのは、伊藤さんがおこなっていらっしゃる視覚障害者の研究にもつながるのかなと思いました。

その通りですね。障害のある人は、独自のハードルを持っていると言い換えることもできる。もちろんそれは大変なことなのですが、見方によってはすべてがゲーム化するとも言えます。障害がある人は、世界がアウェーな状況なんです。それをどう解釈して生きていくか、というゲームを常にやっているんです。

――この世界をどう攻略するか、と。

その独自のハードルによって、障害者の方々は世界を別のレイヤーで見ているんですよね。

――雑木林を通して見た世界のように。

まさに。道案内をしてもらうと、それがよくわかります。私達が通常目印にするような看板や標識は認識していない。でも、見えている人が気づいていない、道路の小さな割れ目などを目印にしていたりする。道路の感触で「道を工事したてでタイルがつるつるしているから、ここに目的地の店がある」と判別したりしているんです。

――障害でなくとも、私たちはコンプレックスや苦手なことなど、それぞれ独自のハードルを持っていますよね。

そう、それは自分で新しく作ったルールというわけではなく、仕方なく与えられた条件です。でも、それとどう付き合い、世界をどう捉え直すか考えることは、「遊び」というものの根本な気がします。

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