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「説得」ではなく、「誘惑」で社会を変えていく | 伊藤亜紗 #3

性別、生まれ、育ち、学歴、容姿、キャリア……人はさまざまな条件を抱えて生きています。その条件のせいで、不利な状況に陥ることも。そういうときは、どうしたらよいのでしょうか。社会に働きかけ、状況を改善しようとする? 諦めて我慢する? 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の伊藤亜紗さんは、発想を転換し、抱えてしまった条件を楽しむ視点を持とう、と提案します。美学者の伊藤さんが考える、現代社会の問題点とは。そして、その問題を解決する鍵は「おもしろがること」にありました。

伊藤亜紗

1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。主な著作に『どもる体』(医学書院)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)など。作品制作にもたずさわる。WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017受賞。読売新聞読書委員。

社会運動では変えられないことは、発想を転換して乗り越える

――伊藤さんは女性の研究者であることで感じた、制約やハードルみたいなものはありますか?

そうですね……あの、話が少しずれるのですが、かつては女性であるとか、少数民族であるとか、そういう自分が抱えてしまった条件を解決する手段って、社会運動だったんですよね。

――署名を集めたり、デモをしたり。

そう。でも、それがピンとこなくて。もちろん、社会を自分が生きやすいように変えていくことは重要なのですが、それでは解決しない問題もたくさんあることに気づいてしまったんです。例えば、痛みってすごくパーソナルなものですよね。

――たしかに。人に代わってもらうことはできないし、社会がどう変化してもなくなりません。

そういう、制度をいくら変えても乗り越えられない条件、みたいなものに、生きているとかならず出会ってしまう。だったら、それをうまく遊ぶという方向に切り替える、そういう視点も持っておくほうがいいんじゃないかなと思ったんです。

――では女性の研究者だからこそ感じる大変なこと、というのは特にないのでしょうか。

そうですね。私は博士課程の時に妊娠して、それがわかった瞬間に「このせいで博士論文が書けなかったら、自分のキャリアがここで終わってしまう!」と危機感を抱いたことはありました。なので、わかったその日から博士論文を書き始めました。これは博論と子どもを同時に産むゲームだ、と思うようにしたんです(笑)。

――危機的な状況を、ゲーム化して攻略していこう、と。

けっこうつわりが激しかったので、ベッドの上で吐きながらタイピングしたりして。でも、そんなにつらいとは感じていなかった。「どうせ出かけられないから、ちょうどいいや」くらいに思っていました。むしろ、時間がたくさんあってよかったなと。

――「だから女は大変だ」と思うのではなく、その状況を活かそうと思われたんですね。

きっと男性は男性で、違う大変さがありますよね。むしろ、キャリアを含めた競争から降りる自由は、女性の方があるのかもしれません。男性と女性でどちらの条件が大変かということではなく、与えられた条件のなかでどう遊ぶか、と考えたほうがいいでしょう。

――与えられた条件のなかで遊ぶ。ご著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のなかで、見える人と見えない人が一緒に美術鑑賞をするという、「ソーシャルビュー」のことを紹介されていましたね。そのことを思い出しました。

そう、ソーシャルビューのポイントは「見える人による解説」ではないことですね。そこにいるメンバーが、作品について語りながら意味を探求していく。対話型鑑賞と呼ばれる鑑賞方法のひとつです。

「見える」ことの価値が暴落する体験

――視覚障害者の方の美術鑑賞というと、美術作品に触って鑑賞するというものなのかと思っていました。

そういう鑑賞の仕方もあります。でも、それは限界があったんですよね。知覚にはなるけれど、鑑賞にはならないというか。この彫刻は人の顔だなとわかったところで、その先の意味や良さまではわからない。「鑑賞」のレベルにたどり着くためには、言葉の力が必要でした。ソーシャルビューのおもしろいところは、「見える」という価値が暴落することなんですよ。

――「見える」の価値が暴落する、とは。

視覚障害者にとって、「見える」はすごいことなんですよね。見える人はなんでも正解を知っているような感じがしてしまう。でも、ソーシャルビューをやってみると、見える人でも絵の説明はできないとわかります。感じていることを的確な言葉にできないんです。

――「すごい」「きれい」といった言葉も、「で、どういうことなの?」と聞かれると、たしかに説明できなさそうです。

「あれ」「それ」といった指示語も使えないんですよ。普段使っている言葉が、いかに見えていることに依存しているかがわかります。さらに、説明できたとしてもそれが他の人の意見と全然違ったりする。そうすると、見えない人は「あ、『見える』って大したことないんだ」と気づけるんです。これが大きな価値で。

――見えている人も、自分は全然見えてなかったな、ということがわかりますね。

そう、それで見える人と見えない人の関係も変わるんです。それまで「見える」はすごい、自分ができることはない、と思っていた見えない人が発言に参加し始める。

――その価値観の反転みたいな部分がおもしろいです。

気づいていないことに気づかされる、盲点を突かれる気持ちよさってありますよね。その突かれ方として、かなりエッジがきいた体験だと思います。本当に、想定すらしていなかった状態になれる、というか。

説得ではなく、誘惑して人を巻き込む

――そうした想定外の出会いは、普段の自分のテリトリーから出ていかないと訪れないもの。しかし、つい居心地のいい場所に安住してしまいがちです。どうすれば、冒険しに出ていけるのでしょうか。

うーん、外に出ていくというのは根本的に不自然なことなんですよ。キムチを食べたことがない子どもの前に、激辛キムチを置いても、たぶん食べようとしないですよね。

――匂いからして刺激的ですもんね(笑)。そんな冒険はしないと思います。

動物も、別に冒険しないんですよ。

――たしかに、動物はエベレストの頂上を目指さないですね。

わざわざ自分に適している生息地から出ていくようなことはしない。だから、冒険って人間だけがおこなうこと。つまり、文化ですよね。ではなぜ人間は外に出ていくのか。私の動機は、純粋に知的な興奮です。新しい出会いがあると、無条件にテンションが上がる。でも私はそれを知っているから求めにいくわけで、それを知らない人をどうやって外に向かわせればよいのか。

――無理に追い立てても、むしろ閉じこもってしまうかもしれません。

社会的な視点に立って、今の時代は多様性が大事だから、他者の視点を知るために外に出ましょう、と啓蒙することもできますが……なんというか、特にそういうことがしたいわけではないですね。ただ、興奮って熱なので、伝播させることはできると思うんですよ。

――すごく興奮している人がいると、「おもしろそうだな」と興味を持ってもらえる。

そう、私が本を書いているのも、「見えない世界はおもしろいんだよ」と発信して熱の発生源になりたいからなんです。そうしたら、わりと皆さん感染してくれて、読んだ人がまた「おもしろい」と言うことで熱が広まっていく。教育もそうですが、人に何かをさせるのは、熱の伝播しかないと思います。先生が本気でおもしろがっていたら、生徒もついてくる。

――理解させるのではなく、そばにいて伝わるものがあるんですね。

「おもしろいからちょっと来てみない?」と。説得ではなく、誘惑ですね(笑)。それで興味を持ち、外に一歩踏み出してもらうというのが理想です。

分析結果よりも、直感を信じること

――外に出るのは勇気が必要ですが、意識的に外に出ないと、視野が狭くなってしまう気はします。

そうですよね。冒険しないと、想定外はありません。効率良く、数字の評価が得られるように行動するのは、点線が引いてあるところをなぞるようなもの。そればかりやっていると、自分の心やできることの範囲がどんどん小さくなってしまいます。やはり、なんの脈絡もない、「これだ!」という直感の価値を確保することも大事だと思うんです。

――論理的、合理的な行動だけでは、意外な出会いがなくなってしまう。

私の研究分野である「美学」は、総合的な判断をする学問なんですよね。芸術や感性について探求する学問なので、包括的、直感的な判断をすごく大事にする。統計学で分析しても、芸術作品の良さはわからないでしょう。そういう数字の分析をあまり信じておらず、全体をパッと捉えたときの印象、そのときに自分の中にひらめいたものを大事にしている。でもこういうアプローチは、現代社会において負けてるんです。

――負けている、とは?

価値の比重が下がっています。今は、分析できるもの、エビデンスが示せるもの、再現性があるものの価値が高い。そうでないものは、軽んじられています。でも、分析可能なものだけでは絶対に行き詰まるんですよ。そして、もう十分行き詰まっていると感じています。もっと包括的に、ホリスティック(全的)に見ていかないと。病気の診察もそうでしょう。

—— 検査数値だけではなく、全体的に診る、と。

その人の喋り方、座り方、顔色、におい……いろんなものに、病気の兆候は出ているはずなんです。それを無視して、検査の結果だけ見ていたら重大な病気を見逃すかもしれない。もちろん、検査の結果も大事なので、分析的な視点とホリスティックな視点の両方を持っていないといけない。私は美学の研究者として、そういうことを社会に発信する責任があると思っているんです。

――伊藤さんにお話をうかがっていると、全体的に捉えることや直感は、すごく大事なことだとわかります。でも世の中に訴えても、受け入れられない気もしてしまいます。

そうなんですよね。直感の価値を伝えるのはすごく難しいことなんです。ただ言うだけだと、すごく乱暴な話になってしまう。だって、「私がこう思ったから正しいんだ」という強引な主張も可能になってしまうので。今は、どう伝えていったらいいか、戦略を練っているところです。もっと自分自身も、子どもの頃に雑木林を探検して新しい道に出たときのような、偶然の出会いを大事にしたい。そして、社会全体でその大事さを信じられる状況をつくりたいですね。

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